上越を飛び出し、新潟、東京、名古屋、大阪、そして世界へ。さまざまな仕事経験を生かして、故郷の若者たちを育成

上越公務員・情報ビジネス専門学校(JJC)で教鞭をとる深井美年さん。同校に勤めて今年で3年目。現在、教務部部長と就職部部長を兼務し、多忙な中でも充実した日々を送っています。「実は4度職場が変わり、今の職場で5社目」とのことですが、それぞれの仕事の経験が、今、学生たちの指導にも生きているようです。「話しやすくて何でも相談できます」と、学生たちからの信頼も厚い深井先生に、これまでの仕事の軌跡と、Uターンのきっかけ、今後の抱負を語っていただきました。


旅の思いをかきたてた学生時代のアルバイト
8年勤めて見つけた夢はカフェ経営

新潟ビジネス専門学校(NBC)の学生だった頃、旅行代理店主催のツアーから添乗員のアルバイトの話が来たんです。当時、僕らの面倒を見て下さっていた稲葉先生に、日ごろからいろんな場所に旅したいと話していたこともあってか、バイトスタッフに私を推薦していただました。新潟港から北海道小樽まで10泊11日のフェリーの旅です。添乗員としてはほとんど何もできませんでしたが、乗客の皆さんにもかわいがっていただき、旅が終わって下船されるときに「楽しかったよ、ありがとう」と、涙を流して言ってくださった。感激しました。と同時に、「これからちゃんと勉強して、次はもっときちんと添乗できるようになります!」と思いました。自分の仕事は旅行業界だ、と決意したきっかけでしたね。
卒業後は株式会社新潟トラベルに就職しました。故郷の上越営業所に配属となり、8年務めました。仕事の傍ら、上越の仲間と劇団の活動をしたりして、まあ“青春”でしたね(笑)。
仕事に不満はなかったのですが、父が早くに亡くなり、母の希望で上越に戻ったということもあって、地元を出てもっと広い世界を見てみたいという思いはくすぶっていました。いずれは独立して何かやりたいという気持ちもありました。そんな中、紅茶専門店に出会ったんです。ちょうど世の中カフェがブームになってきていて、ああ、上越にもこんなお店があったらいいなぁ…自分で上越にこんな店が持てたら…という思いが募って、一念発起して転職。紅茶専門店の株式会社ルピシアに勤めることになったんです。

旅行会社の経験は、学生や先生たちの研修旅行などの際にも存分に生かされています。

 

偶然の出会いから世界をめぐる客船へ
そして再び旅の仕事に

ルピシアでは本部勤務からたまプラーザ店、青山店、池袋店と店長を務め、やがて営業部に異動して全国の店の立ち上げにも関わりました。紅茶の勉強はもちろん、接客や店舗経営の勉強にもなりましたし、充実していたと思います。そんな中、お客様の一人から、豪華客船として知られる飛鳥のクルーズスタッフになってみたら? と声をかけられたんです。飛鳥は世界中を巡る客船で、お客様は一度乗船されると何日も何週間も船の上となります。ですから、航海中、お客様を楽しませるためのイベントや遊びなど、さまざまに企画しないといけないんですね。その仕事をやってみないかと。
面白そうだなぁと思って、とりあえず履歴書を勝手に送り付け(笑)、半年後、忘れた頃になって面接の知らせが届いて採用ということになりました。
お客様を喜ばせるという点では、それまでの仕事とも共通しますし、世界を旅する仕事に就けるというのはめったにないチャンスと考えて、クルーズスタッフへの転職を決めました。
ここでは、1回船に乗ると4カ月は乗りっぱなし。帰国して2カ月休みがあって、また4カ月の航海に出る、というような形でした。芸能人をはじめ、有名人もたくさん来られて、楽しかったですね。

母のことを考えて下船
四たび転職して出世街道まっしぐら!?

飛鳥の仕事に就いて2年くらいたった頃、母の具合が悪くなりまして、何カ月も日本を離れざるを得ない船の仕事を辞めることにしました。まあ、親孝行もせず、ずっと親元を離れて好き勝手なことをしてきましたから、何かの時にすぐ駆けつけられる距離にいるべきだと思いまして…。
とはいえ、仕事もしなければ生活できません。そこで、次に勤めたのが株式会社フォーラムジャパンです。ここは、旅行業界に特化した人財派遣をする会社です。当初は、プロの添乗員として勤めていました。もともと旅行は好きでしたし、仕事のスタートも添乗でしたから、業務には割とすんなりなじめました。ただ、猛烈に忙しかったですね。ニュージーランドから戻って中1日でオーストラリアに飛ぶとか、お客様から呼び出しがあれば曜日も時間も関係なく対応するとか、そんな日々でした。その後、正社員となり、新人教育担当や営業を経て名古屋支店、大阪支店と転勤し、それぞれ支店長を務め、最後は東京本社の副支店長でした。
当時は2008年のリーマンショックがあり、2011年には東日本大震災が起こり、旅行業界も厳しい状況でした。さまざまなことの転換期だったのかもしれません。
2010年には母が亡くなりました。2008年に結婚した妻が、母の看病に通ってくれていましたが、私自身は名古屋支店にいた頃で、本当に親不孝な息子でした。その頃から、妻と「いつかは新潟に戻りたいね」と話すようになっていました。
そんなとき、表参道にあるネスパスという新潟県の情報発信スポットで、Uターン・Iターンに向けた会社説明会があるという連絡を受け、出かけてみました。で、出会ったのがNSGグループ。ようやく、今の仕事までたどり着きました(笑)。

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