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サッカーで地方を元気に。
夢の舞台を世界に広げていきたい。

#学校経営
#人口が減らない町
#グローバル展開

スポーツビジネスで地域活性。

学校法人国際総合学園
中村 勉

JAPANサッカーカレッジ 学校長兼NSGグループ スポーツ事業プロジェクト 顧問。1995年新卒入社。入社後は主にスポーツビジネスに携わる。サッカー不毛の地と言われた新潟県でJAPANサッカーカレッジを日本一のサッカー専修学校に導く。高校時代は軟式テニスでインターハイ出場を経験。

これまでのキャリア
1年目
アップルスポーツカレッジで学生募集・学校運営を担当。
5年目
アップルスポーツカレッジにて事業推進などを統括する事務局長を担う。
13年目
国際ペットワールド専門学校の責任者に就任。学校全体の経営を行う。
14年目
JAPANサッカーカレッジの副校長に就任。学校の知名度を全国規模に高める。
22年目
新潟医療福祉大学スポーツ振興室室長に就任。部活動強化の仕組みづくりに取り組む。
23年目
JAPANサッカーカレッジの学校長として海外も視野にいれたスポーツ人材の育成に取り組む。

スポーツを仕事にしたい。かつての自分と重なった。

インターハイにも出場したが、テニスは大学でプレーヤーからインストラクターの道へ。東京で数社内定をもらったが、両親が暮らす新潟に戻ることにした。NSGと出会った。配属されたのはアップルスポーツカレッジ。スポーツの専門学校は、当時は全国的にも珍しい。各種のスポーツインストラクターやトレーナー養成を目指す。入社後いきなり任されたのは広報戦略の立案だった。DMやパンフレットといったツール類。オープンキャンパスや体験入学などのイベント。テレビCMも作らせてもらった。

新潟、福島、長野、山形、富山、群馬。高校を訪問し、体育の教師に説明して回る。何度も門前払いをされた。でも、粘り強く通った。スポーツに関わる仕事がしたい。そう願う若者たちの夢を叶えたい。かつての自分が重なった。彼らを本気でサポートする熱心な教員たちがいる。就職先の開拓に全国を飛びまわるスタッフがいる。この学校には意義がある。1年目、2年目、3年目と、学生数が増加していった。グループ校の中で最優秀賞をもらった。スポーツに関わる仕事を一生続けていく。そう決意した。

サッカーで地方を元気にする。地方の廃校に子供たちが帰ってきた。

2002年に「JAPANサッカーカレッジ」が開校。公式に都道府県から許可を得た日本初のサッカー専門学校だった。2003年に事務局長に就任。目指したのは学校から始まる地方創生モデルをつくること。校舎は廃校となった中学校を再活用した。学生の約95%は県外出身。町内に寮を建て、人口増につなげた。学校で働く人を地元から募って雇用を創出した。地元の方々にパソコン教室やシニア向けの体操教室を開いた。

地域の小中学校で女子サッカー部を指導。留学生と地元の子供たちとの雪上サッカー大会。聖籠町と一緖に企画した「サッカーで婚活」イベントには100人を超える応募があった。地元の夏祭りには毎年学生たちが参加し、近くの海の清掃活動も続けた。関心の薄かった地元の人たちが試合を見にきてくれるようになった。おばあちゃんが声を枯らして応援してくれる。町を歩く学生たちに住民の方々が声をかけてくれる。愛を込めて叱咤激励してくれる。今、聖籠町は「人口が減らない町」と呼ばれるようになった。かつての廃校は町のシンボルとなった。

アルビレックス新潟シンガポール。活躍のステージは世界へ。

2004年、グローバル展開が始まった。「アルビレックス新潟シンガポール」。シンガポールリーグのクラブチームを持つことで、学生たちの活躍の場をアジアにまで広げることができる。アジアのサッカー熱は高まっている。クラブの社長交代により、まずチームの経営者探しから始めた。東京に何度も通った。サッカーに情熱を持ち、語学力があり、バイタリティのある人材を迎えることができた。多くの学生がシンガポールへ行き、たくましくなって帰ってくる。地元の日本人会やローカルの人たちと交流も深めた。観戦料金の何%かを地元スポーツ団体に寄付する仕組みを採用。地元に愛されるチームとなった。

2011年には中田英寿氏が率いるチームとドリームチャリティーマッチを開催。現在、新潟から飛び出した卒業生たちは、シンガポール、マレーシア、カンボジア、ミャンマーで活躍している。選手だけではない。トレーナー、フロントスタッフ、マネージャーなど、活躍できるフィールドは広がっている。2013年から、「アルビレックス新潟バルセロナ」もスタート。新潟から世界へ。これからも挑戦を続けることになる。

※所属表記・記事内容は、取材当時の内容に基づいています。
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